stu16776’s blog

西尾のミセスのセレクトショップ👠

お気づきのように来年より水木と連休となりますので、宜しくお願いいたします🙇‍♀️

先日もご質問されたり、時々、ラフオンスの

経緯を聞かれます。この節目の時にご紹介させて

下さいね。

平成2年、息子が誕生した年、名鉄パレからbefaceとしてスタートしました。

さかのぼると、その4年前、私達が結婚式をあげたと、同時期ぐらいに主人がアパレル、銀座

セキネに入社したのです。

違う業種で働いていた時に、出会えた一人の男性で人生が変わりました。

その方の勧めがあり、アパレルに入り豊橋

セキネや、あの当時はドル箱だった、名駅メルサで店長をしており、バーゲンではお札がレジに入らなく、段ボールがいっぱいになるほどだったようです。

私も若い時から、お洋服が大好きでバーゲンとなれば友達達と大混雑の中、買い物をしていた事を思い出します。

そこで、上司だった方に可愛いがられ、西尾の

名鉄が改装となり、名鉄パレとなった時に、

上司の顔でテナントとして入る事ができ、店長として任されました。

当時では、都会的な品揃えや高価格帯から、

西尾では無理だと言われておりましたが、

既にミカが誕生していて、何を売っても売れる

時代でもありましたし、西尾市民の安定した

地域がらもあり軌道に乗るのも早かった

ようです。

そして、数年、店長として働く主人も、アパレルのノウハウが分かってくると持ち前の

「人に使われるよりは」と言う精神で、独立を

考え、befaceを買い取り「La.fons」として

第二のスタートとなりました。

当時のスタッフさんと一緒に始めてましたので

私はまだ生まれた息子の子育てで、お店とは関わってはいなかった時です。

姉は小学生となり、息子が入園した時から本格的に店に入りました。

販売と言う業種は自分に合っていたようで

あるストレッチパンツを日本一販売した記憶も

あります。

パレでは次第にお休みも無くなったり、

お正月営業も時代の流れで強いられ、大変でしたが、当時はまだ若かったので乗り越えてきました。

ただ、勝手に個別に店を休む事は許されなかった

ので、私の親の葬儀に主人は一回も出席出来ない

私は子供の行事もほとんど、行けない、

息子の高校3年の一番重要な時期に保護者面談も一回も行けずで先生からはどんな親?ぐらいに

思われたようだと、息子から聞きました。

が、常に子供より仕事を優先してしまった後悔も

時々あります。

あの当時、パレのテナント料は固定家賃+

売り上げ歩合で平均してラフォンスでは

70万をひと月で引かれてましたので、必死でした。

年々、安売りもパレでは目立つようになり、

特紹会と名を打ちチラシを入れるだけで、1週間に更に17万円程も+で引かれていました。

ですが、顧客さんはこう言う安売り時期の混雑した時には、ご来店がなく本当に費用対効果としては最悪でした。

しかし、ビルの持つ権限は強くて文句あるなら

出て下さい!ぐらいの時です。

そんな時代から、徐々に翳りが出てきたのが

パレの2度に渡る投資会社への身売りです。

特に最後の和歌山本社オークワへ変わった時は

食品も劇的に変わり、いい物から、安い物へと

なり、パレには文句の電話が相当にあったと

聞きました。

それから、数年でミカに続いて、消防法もあり

解体となりました。

 

その間に豊橋店もOPENしました。

西尾店はそんな経緯でラッキーな開店が出来、

軌道にも乗ってきた時に、セキネ時代に一緒に

働いていた女性から主人に仕事の相談を受け

たのです。今いるブティックを辞めたいとの

相談で実力がある人だと分かっていたので、

マンション資金から全て援助して豊橋店で20年近く店長として、頑張ってもらいました。

最後はご自身の大病と、やはり利益が下がり始めたので閉店しました,

その間にも、パレ神宮から熱烈なお誘いがあり

迷いながらも3店舗を居抜きと言う型で入りました。が、以前は1店舗,1億売れていた時代から

遅れをとり始めていた神宮パレ。

主人が満を辞して入った時は、既にそれぞれの

お店は半減。理由はここでも安売りに徹したせいで、お客様は離れていき,安売り好きな人と

上にあった習い事のおばちゃん達と高齢化していたのです。主人が帰ってくるや否や、ぼやいていた事を思い出します。

歩いている人はほぼ、おばあさんばかりで

SALEになってもワゴンの中しか見ない💦と。

それに合わせて、お店もおばちゃんが着る服

ばかりを並べるようになったようですから、

いいお客様が来る筈もない。

SALEになっても、ラフオンスでも展示会商品が売れ残る始末で、名古屋と言えど西尾のお客様の方が相当に感度が良い地域でした。

売り上げも少しずつは伸びていましたが

契約段階で、神宮にまた、数年いたらメンタルがやられて身体がもたない💦🤭😤と閉店を決断しましたが、正解だったようです。

それが、唯一、人生の無駄な時間!だったと

未だに語り草となっております。

ただ、その時のお客様が西尾にもいらして下さる

ので、それは神宮時代の唯一の宝物です。

閉店してからは、また西尾店で一緒に10年近く

いてくれたスタッフさんと共に3人体制で

頑張っていきました。

これが、パレ時代の20年間の歩みです。

 

明日はこちらの店舗となった経緯などを

ご紹介します。